魔に関する資料





 魔というものは一対の選択的透過膜である。
 ウェーブデビル、という。

 放置したお茶は周りに熱を発散させながら冷めていくが、冷めたお茶に周りから熱が集まってきて熱いお茶になることはありえない。
その一方、冷たいお茶は 熱を集めながら常温になるが、集まりすぎて蒸発することは決してない。

 この当たり前のことは、実は確率論で決まっている。顕微鏡レベルよりなおもっと、小さなレベルで言えば運動する粒子が別の粒子にどう熱を伝えるか、運任 せなのである。
ただある程度の傾向があり(それが先ほどの熱すぎも冷めすぎも長い目で見れば認めないということなのだが)、全ては膨大な試行回数と確率論 の示すところによって、傾向に合致する。これを熱力学第二法則という。

 魔(ウェーブデビル)という選択的透過膜とは、確率のトリックを発生させるレトリックである。

 それは確率を恣意的に操作する存在であり、お茶が自然と沸騰するような、そんな現象を引き起こす、不可思議な存在であった。

(頂点のレムーリア第1部第3回(P59)より)







「魔を知っているか?」良狼は静かに言った。
「え?」雷蔵は良狼の背に鼻の頭をぶつけて涙目になった。良狼を見上げる。
「どうしても行かなければならない所がある。そのための相棒を探している」
(略)
「なんだ、今から探すのか。どこに行くの? 仕事かなにか?」
 また肩をすくめる良狼。「それに近い。しいて言えば確率論における例外処理業だ」

(頂点のレムーリア第1部第1回(P13〜14)より)







 青い瞳に引き込まれ、あやめは無意識に手を伸ばした。良狼の手を握る。
 白い手袋が燦然と輝きだす。
 良狼は静かに言った。
「対なる魔。その名はアンドローラ」
 良狼の右手に光が、雷蔵の左手に闇が現れた。
 それぞれの手から見目麗しい一対の魔が現れる。手をつないだ光と闇の魔。

 ――私は光のエウローラ――
 ――私は闇のアウローラ――
 
 魔は互いの手を離すと同時に翼を広げた。一陣の風を残し、良狼と雷蔵の周囲を回り始める。良狼が手を伸ばせば、光が槍となってその手に握られた。
 びっくりするあやめの目を見ながら良狼は言った。
「だから俺は相棒を探していると言ったろう。レッスン1(ワン)。魔は常に一対だ。そして使い方は、こうする」
 警官隊が発砲を開始した。弾が五pほど左右を飛んでいくその中で、良狼は青い瞳を輝かせて右手を動かした。光の槍の軌跡が残る。
「光のぉぉぉ!!」
 跳躍。
「エウローラ!!」
 着地と同時に槍が振り下ろされ、一斉に一〇〇名ほどの警官が巻き上がる風に転んだ。光が暴走し、竜となって暴れまわる。良狼はあやめの手をとり、警官の 間にあいた突破口を走り始める。
「こんな風に、殴ることとあまり変わらない。急げ。レッスン2(ツー)。世界の調和が破れる前にお前の力を使え!」
「ひどい奴だ……こんなことずっと隠して」
 あやめは自分のことを棚にあげて呟いた後、意を決して顔を上げた。左手を動かせば闇が動く。闇が、鉄扇に変化する。
「闇のぉぉぉ!!」
 跳躍。スカートと髪が揺れる。
「アウローラ!!」
 闇が広がる。闇は暴れまわる光の竜を吸収し、世界に平穏を取り戻した。一瞬だけ。鉄扇が飛んでそれを足場にしてあやめと良狼はジャンプ。
垂直のビルを駆 け上がり、同時に空中回転して下を見る。鉄扇が闇が際限なく広がるのを見た。
 良狼の振るう光の槍の輝きがそれを中和する。中和してなお残る輝きが、ビルに激突して根元からへし折った。
「これって、ずっと続くの?」
 あやめは冷や汗をかきながらたずねた。
「総量が丁度〇になるまでな。二人の力加減が難しい」良狼。
「ひどい能力だ。僕と君の息が合うなんてこの先あるの?」
 忘れられぬ日々の、それが最初になった。あやめの前で良狼は笑って見せたのである。
「こればかりはわからん」
「バカ! 君はホントにバカだ!」

(頂点のレムーリア第1部第1回(P24)より)






「行きますよ」
「うん」

 漢のつまんない意地は往々にして本気の命がけである。
 並んだ岩手と雷蔵は二人同時に腹の底からうなり声をげた。

「鋼鉄のぉ! シェイプシフター!」
「鉄色のぉ! アウローラ!」

 二人は同時に魔をその手から取り出した。
 水中の金属分が結晶化していくつもの槍になり、天に昇った。

「落下!」
「落下!」

 天から数多の鉄の槍が降り注ぐ。
 大騒ぎで逃げ惑う海賊たち。瞬く間に帆が破れ、甲板に槍の森ができ上がる。

 お遊戯の剣の舞を舞っている時と違って、確かに本気だった。

 自分に降り注ぐ槍の雨を軽く剣で振ってかわす赤鮭。嬉しそう。
「魔の使い手ときたか。ウェーブデビルなんて何年ぶりだ」
「雷蔵と岩手が0(ラブ)シンクロしているのか」 うなる良狼。
 赤鮭は危機となれば心躍るのだった。嬉しそうに言う。
「どうする? コンビ、復活するか」
「……仕方ない」

 赤鮭と良狼は同時に天を見上げて歌を歌うように言った。
「背徳のぉ、レダ!」
「道徳のぉ、エウローラ!」

 それぞれに手から魔を引き出し、同時に海水中の塩分を引き出して空気中に放出した。
鉄の槍が瞬く間に錆びて赤茶けた錆となってばらばらと落ちる。

 温度が、あがる。靄が出る。
 鉄が酸化する時に熱が発生したのだった。

(頂点のレムーリア第1部第8回(P172)より)





 高く飛んでいたのは、良狼だった。
 目のすべてを真っ赤に変え、ミズンマストを片腕でへし折り、着地。手を振って海面を泡立たせ、手あたり次第襲いかかる。
 光の牙が腕から伸び、りんごの樽を丸ごとかじりとった。
「ウェーブデビルが暴走してるな」
 他人事のように言う赤鮭に、岩手が思わず目を開く。
「……そんなことがあるんですか?」
「普通はない。プラスとマイナスがそろわないと宇宙の秩序が保てないから……だがまあ特別な例外もある」
 まとめて海賊の何人かを吹き飛ばす良狼。
 訳のわからない言葉を叫んでいる。
 赤鮭、にやにや。なぜか嬉しそう。奈穂や雷蔵と合流する。岩手と青カモメもついてくる。もはや敵味方どころの騒ぎではなかった。
「見たかあれ。うひょひょ。いい男っぷりじゃないか。いただきたーい」
「何言ってんのよこんな時に!」
「そんなに怒ってると、目尻に小じわができるぜ?」
 あわてて自分の目尻をひっぱる青カモメ。赤鮭微笑む。
「こりゃあれだ、王族のホーリーグレイルだな」
「王族……って山梨さんが?」
「良狼が王子だって?」
 びっくりする奈穂と雷蔵に変な顔をする赤鮭。
「知らなかったのか?」
 私、何も知らないと少しショックな奈穂に、あれで王子様かあとクスクス笑う雷蔵。赤鮭はこりゃ状況改善には役に立たないと判断、青カモメを見る。
「おい、沖縄の」
「今は青カモメよ!」
「そうか、そりゃ悪かった。で、沖縄。お前も王族だったよな」
「知ってるくせに……」
 ぶつぶつつぶやく青カモメ。本当は政略結婚でどこぞに輿入れするはずが、赤鮭に相手を寝取られたり復讐のための海賊退治というか赤鮭胎児に血道をあげて いるせいで行き遅れている。本国では親もあきらめ気味であった。
「お前あれ、吸収できないか?」
「できる訳ないでしょう! あんな大きいの! そんなことやったら壊れちゃうわよ!」
「そうか」
「吸収って……?」
 そう尋ねる奈穂に、赤鮭は少し表情を改める。
「暴走をおさめるもっとも手っ取り早い方法だな。質量井戸から汲み上げられる質量を元の世界に送り返して均衡が破れないようにする、王族にはその能力 が……なんだその顔は」

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 良狼を挟む青カモメと赤鮭。
 二人同時に白い手袋をはめ、同時に手を回しはじめる。
「おひさしぶり……かな。年恰好から言えば、貴方はリョーランなのね。すぐ、お姉さんが助けてあげるね」
「行くぞ!」
 青カモメと赤鮭は同時に左右の手をさし伸ばした。良狼が左右を入る。
 手袋がばらばらになり、青カモメと赤鮭の手の甲にウェーブデビルが出現する。

「冬のぉぉぉぉ! レダァァ!」
 冷気を纏わせて笑う赤鮭。
「夏のぉぉぉぉ! カリストォ!」
 熱気を纏わせて凛々しい青カモメ。
 二つのウェーブデビルが手をつなぎ、円となる。

「円環を開け! それは左回り!」
「円環を開け! それは左回り!」

 水面が左巻きの渦巻きを作り始める。
 船が木の葉のように揺れ始める。
 良狼は天に叫ぶ。浮かび上がる光のエウローラ。
「やった。なんかわからないけど、分離する!」
 雷蔵の声。

 エウローラの足元から次々と絡みつき、立ち昇っていく光の蔓。
 エウローラが天に昇るのにあわせ、どんどんどんどん、どんどんどん、太くなりながら伸びていく。

「……こいつがこの世界に流れ込んできたエネルギーか。ずいぶんな食いしん坊だな。ええ、良狼よ」
 汗を流す赤鮭。
「ダメ、力が大きすぎる! ウェーブデビルが!」
 青カモメの悲鳴。

(頂点のレムーリア第1部第8回(P198)より)







 最初に、ありえない大陸があった。
 名前を、レムーリアと言う。

 大陸移動説がなかった頃、キツネザル(Lemur)の分布を説明するために仮説として存在した、一時期存在し、そして水没したという大陸である。 Lemurの大陸でレムーリアだ。
そしてその後、大陸移動説がこのキツネザルの分布を上手く説明したために、この説は間違いとしてレムーリア大陸の存在はなかったことになった。

 だがその後も連続、また隣接する多世界の中には実際にレムーリアが存在しうるのではないかと、世界移動者達は、根強く噂をしていた。
ホラと片づけるには多すぎる目撃例があったのである。

 調査が、行われた。そして発見された。レムーリア大陸は霧に包まれた、世界から世界を幻のように移動する存在である。

 この大陸を最初に発見した探検家は、ここで一人の魔王に出会い、そこで「対なる魔」、ウェーブデビルを操る力を学び、近隣世界をすべる王となった。
それから、代替わりが起きて玉座にあがり新たな王になるために、特定の形質を持った娘を、魔王の花嫁としてさしだし、かわりに究極の魔を授かることになっ ている。

(頂点のレムーリア第2部第1回より)







「お前、使えるんだろ?」
「何を」
「頂天の力を」
 片方だけの白い手袋をはめる大阪万博を見て、昇は静かに言った。
「我々は魔と呼んでいる。ウェーブデビルと」
 昇は言った。
「その名前は相応しくない。あれは魔じゃない。聖なるものだ」
 そう言い返し、その手袋を淡く輝かせて、万博は古い聖句を唱えた。
 今はもう誰もがおとぎ話ととるようなそんな言葉だった。
「この力は……昔の誰かの優しさだ。誰かとまた遭うただそれだけのために、0から分離して作られたプラスとマイナスの力だ」

(頂点のレムーリア第2部第6回より)







「覚えているか?」
 昇は手の甲に淡く輝く文様を呼び出しながら言った。
「忘れられるものか」
 栄介は同じく手の甲を輝かせながら言った。

 それは自転車の運転に似て、一度覚えれば二度と忘れらない力と技である。

「頂点の力を」
 昇が手を伸ばすと美しい“魔”がそぞろ姿を現した。
「明乃ちゃんを」
 栄介があわせて手を伸ばす。彼の“魔”は美しい女の形をしていた。

 昇と栄介の周囲で風が沸きあがりはじめた。物が浮かび始める。
 次の瞬間、跳ぶ二人。

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 0というものはその実平均値が0なだけで、実際には−1と+1の組み合わせでも−10000と+10000の組み合わせでも0になる。
“魔”という生き物は0から“選択”という行為を経て信じられないエネルギーを汲み上げている生き物である。

 昇や栄介は、その“魔”を身体に寄生させていることで、莫大な力を引き出すことができる。

 だが、“魔”というものは、万能ではない。普通ではない弱点も持っている。
その一つは、常にプラスとマイナスの対で存在しなければならないことであり、エネルギーが取り出されるたびにもう片方が中和しなければ、
そのうち世界そのものを無限のエネルギーで破壊してしまうということだった。 

(頂点のレムーリア第2部第8回より)







 微笑み、ベッドから手を伸ばして明乃の頭をなでる万博。
 天井を見る。苦しそうに、口を開いた。

「昇は世界の敵なんだ。いや、このままでは世界の敵になる。見てわかったろ、あの妹に対する、感情。
 笑い話というものを越えている。あのままでは、奴は世界のバランスを壊して0(ラブ)の力を使い始める」
「ラブの力?」
「二人で使う、力だ。魔とも言う、一人がプラスを、一人がマイナスの力を使う」

 万博は枕元においた白い手袋を、目だけ動かして見た。
「あの、不思議な力……?」
 明乃の言葉に、うなづく万博。口を開く。

「ラブは二つで一つだ。片方だけ使えば相殺されずに世界が滅びる。
 あいつは自分は一人だって思った瞬間に、あいつは一人で力を使う。
 それで、世界は終わりだ。それでは駄目だ。とめなければ」

(頂点のレムーリア第2部第8回より)







 並んで走る。中庭に面する、王族専用の無人の聖堂に入った。

「暗いわねえ」
 青カモメは途方もなく当たり前のことを堂々と言った。
「明かり取りの窓が閉まっているから」
 青カモメにもわかりそうなことをいちいち言う赤鮭。

 青カモメは赤鮭が嫌そうなこと以外を素直に言ったので声を立てて笑った。
 すぐ不機嫌になる赤鮭。黙って先に歩いていく。
 一番奥の祭壇、そこに置かれている一対の白い手袋を見た。銀刺繍で模様が書いてある、ただそれだけのものだった。

「いい冒険になるわよ」
 青カモメは赤鮭をそう慰めた。
「実験だよ。そんなものじゃない」
 赤鮭はそう言い返した。内心赤鮭も冒険だと思っていたのだが、そう青カモメに言われると、彼は不機嫌になった。
「あんまり変わらないわよ」
 青カモメが笑ってそう言うので、さらに不機嫌になる赤鮭。
 あるいはそれは照れ隠しだったかもしれないが、青カモメには、わからなかった。

 手袋を手に取り、片方をはめる赤鮭。青カモメも片方をはめた。
「これが?」
 青カモメがそう尋ねると、赤鮭は迷いながら口を開いた。
「……手を繋ぐ、いやだったら」
「いいわよ?」
 赤鮭が不機嫌そうにしている隣で、青カモメはその手を繋いで、大きく揺らした。
 なぜか楽しかった。男と手を繋ぐのは楽しいと、青カモメが間違ったことを覚えた瞬間である。
「呪文を唱える」
 赤鮭はそっぽを向きながら言った。
「どんなの?」
 楽しげに青カモメ。
「いでよと、対なる名前」
 つぶやく赤鮭。
「どんな名前にするの?」
 楽しい青カモメ。繋いだ手を、振った。
「考えてない」
 まんざらでもない赤鮭の顔。
「じゃ私、星の名前がいいな。カリストとか」
 青カモメが笑顔で言うと、赤鮭はうすくらやみの中で相手をよく見た後で、言った。

「では、僕はレダで、冬だ。そっちは夏のカリスト」
「いいわよ。じゃあせえの」
 息を吸う青カモメ。

「いでよ! 冬のレダ!」
 赤鮭は叫んだ。
「いでよ! 夏のカリスト!」
 青カモメも元気に言った。

 聖堂が、大爆発した。

(頂点のレムーリア第2部 赤鮭外伝(前編)より)